奈良公園を散策
2016年 大阪の旅 part25
更に・・・池の畔に石碑が・・・
植桜楓之碑
幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)までの5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨はその識見と善政によって住民から深く敬愛された。
この碑はその一端 彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大・興福両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した時の記念碑である。
多くの苗木を寄附した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また後世の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかない。
なお彼は大坂町奉行 外国奉行等幕閣に重きをなし慶応4年3月15日(1868明治元年)江戸落城の報に自尽して幕政に殉じた。(案内板より)
歩いていると・・・
傅説三作石子詰之旧跡
なんだろう?調べてみると・・・
石子詰めの三作
奈良・興福寺の南側の道を東に歩くと、右側に菩提院の大御堂があります。その門前には『伝説三作石子詰之旧跡』と書かれた碑が立っています。
昔、この場所に寺子屋があり、読み書きやそろばんなどを教えていました。
興福寺の稚児の三作(みのさく)が習字のお稽古をしている最中に少し離れた時に鹿がきて、習字を食べてしまいました。
三作は鹿を追い返そうと文鎮を投げつけると、当たり所が悪く鹿は死んでしまいました。
当時、鹿は神のお使いといわれ、殺した者は死んだ鹿と一緒に小石で生き埋めされる「石子詰め」という刑に罰せられました。
三作はその罪によって寺の深い穴に入れられ、死んだ鹿と一緒に石を詰めこまれ生き埋めにされたといわれています。当時、三作13歳。
その後、寺では三作の供養の為、明け七つ(午前四時)と暮れの六つ(午後六時)に鐘を鳴らしました。合わせて十三、三作の年齢にちなんでのこととされています。(奈良市観光協会HPより) 何とも悲しい民話・伝説が残っているんですね・・・
菩提院の大御堂 敷地の中には入れませんでした。そのまま進むと・・・
鳥居が見えてきます
一の鳥居 このまままっすぐ進むと春日大社につきます。しばらく歩いてみる・・・
歩いていると・・・スマートフォンが
鳴り出した。誰からだろう?と思ったら一休さん。数時間前に夕方に難波で飲もう!と話したばかりなのに・・・妙なハイテンション(笑)ひょっとして昼間っから飲んでるな!?www。夕方の約束の確認をして電話を切る・・・が、この時間から飲んでるとなると・・・なんか嫌な予感・・・
更に歩く・・・
この辺りには鹿せんべいを売っている店もなく、鹿もがっついていない・・・
木陰でのんびり~
ふと見ると・・・立派なお屋敷が見えてきた
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