長崎市 崇福寺に行ったYO! part4 大雄宝殿~大釜~媽祖堂門
長崎ドライブ 2016 その38
大雄宝殿(国宝)
福州出身の在留唐人が中心となって、福州から僧超然を招き創立した寺。釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進により、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立された。当初は単層屋根(たんそうやね)。35~6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗(おうばく)天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調とし、しかも両者は違和感なく調和している。この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似する。(長崎市HPより)
中を覗いてみると・・・
お釈迦様
優しいご尊顔です
お釈迦様を取り囲むように仏像があります。
県指定有形文化財 崇福寺本堂の仏像群(釈迦三尊と十八羅漢)
大雄宝殿の本尊は釈迦如来坐像。向って右脇侍は迦葉尊者、左は阿難尊者ともに立像。みな中空の乾漆像。胎内から銀製の五臓と布製の六腑が発見された。前者に承応2年(1653)化主(寄付集め世話人)何高材、後者に江西南昌府豊城縣仏師徐潤陽ほか2名の墨書があった。
左右に並ぶ十八羅漢は中空の寄木造で麻布を置き漆で固めたもの、延宝5年(1677)羅漢奉加人数という巻物が三尊の胎内から発見されたことと、唐僧南源の手紙に唐仏師三人が崇福寺で羅漢を造るとあるので、24年の隔たりがあるが、この三人が徐潤陽ほか2名ではないかと疑うこともできる。どれもみな中国人仏師の作で当時を示す貴重な作例である。(案内板より)
軒に吊るされた照明や彫り物装飾が中国っぽい!
鐘鼓楼の向かいに大きな釜があります・・・
これぞ大釜
崇福寺大釜
第2代住持であった唐僧・千獃(千呆)性侒が、飢餓救済の施粥(せじゅく)のために造った大釜である。 延宝8年(1680)の諸国不作以来、米穀不足となり、天和元年(1681)には、長崎にも餓死者が出た。 福済寺2代住持唐僧慈岳や当寺の千獃は、托鉢や富商の喜捨などで粥を煮、多数の窮民を救った。粥の施しを受ける者は多い日には、3,000人から5,000人に及んだという。
千獃は翌天和2年(1682)2月大釜を造り、4月14日完成。 鋳工は鍛冶屋町の鋳物師 案山弥兵衛と推定される。(案内板より)
媽祖堂門
国指定重要文化財 崇福寺 媽祖門(まそもん)
媽祖堂の前にあるから媽祖堂門と呼ばれるが(文化財の指定は媽祖門となっている)、大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下を兼ねた巧みな配置となっている。現在の門は文政10年(1827)に再建したもので、建築様式は和風が基調をなしているが、扉前面に黄檗天井がある。木割が大きく外観がよい。主要材はケヤキである。
媽祖は、まそ・まぁずぅ・ほざと読むが、また天妃・天后聖母・菩薩・老媽などの呼び名がある。海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小僧を祀る。(案内板より)
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